シ・ヴェンデッタの逆襲

 押井守「雷轟」によれば、日本には「フェーデの概念が存在しない」さうである。

 

 で、みなもと太郎 「仁義なき忠臣蔵」によれば、日本人の復讐譚は、「曽我兄弟や忠臣蔵など、当時の概念に照らして非合法なもの」がもてはやされ、鍵屋の辻での復讐と言ふ、普通の復讐譚は、「やられる側から」語られたり、無理やり悲劇がつけられたりする、さうである。

 たぶん「宮城野 信夫(いいけどニコニコ大百科にこの記事あったぞ)」とか、吉田松陰が収録した「登和物語」(宮番と言ふ特殊被差別民な人の登和さんが いろいろあって親族を殺した外道をやっつけに行く。仇は彼女の手でないけど死にはし、復讐を却下した殿は登和さんの功績を認めて「平民」扱ひにした)とか並べても、みなもと太郎の説は揺るがないと思ふ。




著者のスタンスが微妙に「復讐うざい」へのナショナリスム入りかけなのだが、でも復讐権/復讐の義務の関係がぐだぐだになってゐる。平民がかたき討ちして本懐遂げて褒められてゐる。あうあう。