屠る

内澤旬子「世界屠畜紀行」は、「屠畜は世界的に見てタブーになってるところを捜すのが難しい」と言ふ旨を調査した本である。一応、「屠畜を蔑視っちゃ蔑視し」「白丁(漢字文化圏では「一般人」を指す語 韓国では牛の屠畜を行ふ儀礼の集団)を蔑称として使う」韓国では「一応政治的に正しいっぽい用語としての「屠畜」と言ふ用語を日本から持ち込んで用い(二千一年ころ 狂牛病朝鮮人のDNAになじむ点が発見されなかったころには屠畜場が「臭い、汚い」といふバイアスで全韓国のマス・メディアに取材されたさうだが)」「一般人が当然のようにブタを屠畜する」さうである。

 ムバラク大統領(コプト教徒を保護してゐたらしい)がふんぞり返ってゐたむばらくの間だけかはわからないが、この本刊行当時は「イスラムの屠畜屋さん&イスラムのお肉屋さんが、コプト教徒のために豚肉を屠畜し売る」と言ふほっこりな関係があったらしい。いいけど「妊娠ラクダがたまたま間違って殺された」時に、不幸にして取材に行った内澤先生が、「屠畜の技を極めた!」とやるおガキ様につかまり、「息の根を止めるわざを、胎児で見せてくれる」旨と、「妊娠した獣がいかにタブーになったか」が書いてあるけど、レビ記には「豚喰ふな」の次に「駱駝喰ふな」と書いてあるんだけど まあそれを言ったら欧州の人が喰ひまくるウサギさんはハイラックスと共に喰っちゃいかん奴だし、ややこしいことにレビ記で「喰えー!台所とか屠畜儀礼の場所で屠られる牛は尊い!」と書かれる牛は、中尾佐助先生によるとインド以外、結構キリスト教広まって以降の結構な期間の欧州で、食べたらいかん動物だったらしい。よく判らない。

 で、さう言ふわけなので、ケルト神話の主神ダグダは、一回づつ屠って肉だけにして皆へふるまって、豚骨は残して皆さん喰った後豚骨へお呪ひをして復活させる魔法のブタを持つ、といふ話が、なんとなく残るとか、北欧神話でトゥール神は、タングリスニとタングニョースト(どっちかがトゥースナッシャーでどっちかがトゥースグリンダー)といふ二頭のヤギに車を引かせて天空を走り、ハンマー振るって稲妻を麦畑へ落としてトトロの「夢だけど!夢じゃなかった!」状態にするのだが、山羊さん跛行してるんだけど「びっこと雷は鍛冶屋さんのお約束」なんだけどこの神と鍛冶屋の関係は知りません、各戸へ訪ふて山羊を屠り、家の人へ振る舞ふさうで、山羊骨はお呪ひで復活ださうであるが、十九世紀までの、北欧やドイツとかで、各戸へ訪ふて「山羊だかブタを屠って振る舞ふ」聖人としてのサンタさんが語られてゐたさうで、アト・ド・ヴリースによると、かういふ「ミュラの聖ニコラウス」はトゥールの特徴と似るって書いてある。

 叶精二 「もののけ姫を読み解く」の「思想の物語」は、中尾佐助「料理の起源」(将校待遇で満洲にゐた中尾先生が、白ロシヤのおばさんに取材したところ、パンと屠畜については熱く語ってくれたとか書いてある)を参考書に挙げてゐるにも係らず、「屠畜=残酷」と言ふナショナリズムなバイアスをデフォルトに据えて「生きるために屠る」のとは‐ とか書いてゐる。さう言ふ観念が内地っつうか本土の日本人だけであると言ふ見方がない。まあ「あの心臓撃たれたアシタカを救うサンが持ってきた肉」はたぶんサン自身が造ったはずで、内澤「世界屠畜なんとか」では「1980年代まで沖縄県で屠畜は一般人が普通に行い、そういう訳で内地の屠畜屋さんへ取材に行った沖縄のマス・メディアの人が異様な対応をされた」とか書いてあり、佐々木高明「日本文化の基層を探る」では、イヨマンテの儀礼に「動物の飼育文化の影響がある」とだけ指摘されてるけど、「アイヌの民具」によると(浅学非才 ううっ)萱野茂御大は、イヨマンテ用の熊ケージの小さいのを造って、タヌキ入れて、大きくなったらタヌキも送ったさうである。でああ言ふわけなら屠畜蔑視の相対化をまずやるべきだと思ふけどもなぁ 「たかじんのそこまで言って委員会」で宮崎哲弥さんが「屠畜蔑視はほぼ日本特有の」とか言ったのが辛うじて放送されただけだったし。と思ってゐるが、叶氏とは別の点、長野の南部の飯田市は「沖縄へ山羊をおろしてゐるところで有名」である。「屠畜蔑視も教えてゐる」かは寡聞にして知らない。あああああ。「中指を立てる身振りを教える鳥坂センパイ(確かどっかでゆうきまさみ先生が悔やんでゐた)」はまあかろうじて(モデルは飯田の人らしい)エクセプトミーできるとしてもー。



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