個性を引き出す

岡田斗司夫ののたまはく「個性は潰してちょうど」

 同様のことを、呉智英先生が言ってゐて、心理学の人によると、キチガイ@個性的過ぎる人へは、古典の模写をさせると良いさうで、てふか普通、弟子へは古典の模写をさせる。これで才能のない人はしかるべき職に就くスキルが持てるし、超個性的な人は普通のお客さんがゐるものへ自分の作品を見せることができるし、それによって歴史だなんだまでおまけで付く。こっちの原典も忘れてゐる。

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト

 きらきら星、原典は「パパは分別のある人になりなさいって言うけどー僕はボンボンのがいいー」て言ふ歌詞らしい歌をやってる天才が、さう言ふ過程で才能を開花させた奴でいいと思ふのがきらきら星変奏曲。


モーツァルト きらきら星変奏曲 K.265

 

さう言ふので行くと、伊藤若冲 明らかにちゃんとした技術で描かれてゐるにも拘らず、「俺の知ってるこれと違ふ」ニワトリや、明らかに松なんだけど異様な形でコレジャナイ感がぶわぁって出て(確かへんなべろべろがあった)るのと鶴、等を描くことになる前、師匠の絵の模写やらされてゐたのだが、その鳳凰図は、鳳凰はカンムリセイランと言ふ鳥がモデルださうだ(蜂須賀正氏による)けども、それ説の資料になるやうな衒ひのないモノで、さう言ふ修行を積んでる(「支那の絵を千枚模写した」とか言ってるさうである)のである。

 

 李書文伝。彼は神槍の人であるが、修業時代は見学しかさせてもらへなかったらしい。しかも基本の基本の基本だけ。で「平凡へ強制させてくれ」といふも、師匠がやらせてくれないので、なんとか自分でやり、槍の達人になったと説く。それとその門派の「神槍人物伝」がざっくり紹介される。

八極拳の祖(回教徒)は、師事する遊方僧(仏教僧ぽい)、癩にあやかってだか何だかで病だれの字を以て名にあてる、その「個性を引き出す」機関としての支那の気が狂ったやうな平凡へ強制システムからひりだされる、狂への希求のわかりやすい例でいいと思ふ。